フェンシングつれづれ(RENEWAL)

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今週のお題「20歳」

 はてな今週のお題「20歳」

 俺の20歳=1988年。ソウル五輪の年。(成人式は89年1月だったけども)
 成人式の思い出はhttp://blog.livedoor.jp/kammyjt/archives/52062932.html:TITLE=こちら

 で、一浪して大学に入った。元々フェンシングはやろうかやらないか半々くらいの感覚で大学に行ったら、まず応援団に捕まる。とりあえづ「試合は(仙台六大学は)観に行くつもりですけど、やる方は自分で・・・高校ではフェンシングやってました」と言ったら、フェンシング部を紹介されて。
 授業のあとに、片平まで行って。で、なんだかんだでとっとと入る、と。

 春のリーグで、(俺は出番なかったけど)いきなりエペで学院大に勝って優勝してその日に祝勝会とかもうね。ちなみにこの年から、王座戦が東西対抗だけでなく、各学連の優勝校にも出場資格があったが、うちの大学は出ていない。

 一年の夏の国公立では、登録メンバーにも入れずじまいで。

 で、20歳の誕生日に、練習のあとにメシごっつあんになって、その時の主将に「20歳になったんだから、悪いことすると実名で出る」みたいなこと言われた覚えはある。

 市民戦(このときは成年の部がFESと3種目あった。レジャーセンターにて)で、学院大3人に囲まれてフルーレ1回戦を2勝1敗で上がって自信をつけて。で、そのあとの秋季リーグ(東北は春も秋もリーグ戦をやってた。当時は4人vs4人)でフルーレで使ってもらって(3年の先輩が実質引退したからというのもあるけども)。学院大相手にチームは3−13で負けたけど、最後俺が2勝して、これでなんとか「学院大は勝てない相手ではないな」と思った記憶がある。
 インカレは個人戦は東北予選敗退、団体は(京都開催だったので)出場せず。

 ちなみに(一浪してるので)ジュニアの世界選手権予選は、要綱は回ってきたけども当然出場資格はなく(JOC杯が今の形式になったのって俺が就職してからだな)。というか、このときのジュニアの世界選手権(1989年)って、この年からサーブルが電気になったので、日本は選手を派遣しなかったのを覚えている。

 なお、1988年といえばソウル五輪。大会が秋だったが、ちょうどそのころ昭和天皇が体調を崩したので、学内とか世間は自粛ムード。

 日本選手団は・・・
監督:船水光行 コーチ:中島寛
・男子フルーレ個人
金津義彦(山陰アシックス)、江村宏二(山梨県教委)、梅沢賢一(西八代教育事務所) ともに予選敗退
・男子フルーレ団体 予選敗退
東松生(和歌山県教育庁)・梅沢賢一・江村宏二・金津義彦・出野晴信(早大
・女子フルーレ個人
岡智子(日体大勤務)、森川明美専大)、宮原美江子(宮原商店) ともに予選敗退
・女子フルーレ団体 予選敗退
岡智子・桐谷乃宇奈(日体大)・峯啓子(和歌山県教育庁)・宮原美江子・森川明美

 個人的には、出野選手が大学一年でいきなり五輪なんて、えらいインパクトがあった。しかも、社会人になって全然名前観なくなったな、と思ったら、電通に就職してたのか・・・参考記事こちら。