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“幻の代表”父超える フェンシング五輪代表・千田健太


<「メダル目指せ」>
 ポルトガルの試合会場から真っ先に国際電話をかけた。「オリンピック決めました」。3月、フェンシングの千田健太選手(22)=宮城ク=の声はあらたまっていた。
 電話の先は、仙台で吉報を待っていた父健一さん(51)。現在、宮城・仙台三高教頭を務める健一さんは、日本が参加をボイコットした1980年モスクワ五輪の幻のフェンシング代表だ。
 「おめでとう」。父は喜びながらも言葉を続けた。「オリンピックは出るだけじゃ駄目だ。メダル目指して頑張れよ」
 「何だよ、もっとねぎらってくれよ」。千田選手は内心こう思いながら、厳しかった父との猛練習を思い返した。

<中1から猛練習>
 千田選手がフェンシングを始めたのは気仙沼市松岩中1年の冬。「当時通っていた水泳教室をやめる代わりの逃げ道」として、軽い気持ちで「フェンシングをやりたい」と言った。
 そのときを健一さんは待っていた。「父親に強制されたのでは続かない。自分からやると言ったからには最後まで続けなくてはいけないからね」
 1週間のうち、本吉町スポーツ少年団に1日通い、3、4日は当時健一さんが勤務していた鼎が浦高(現気仙沼高)で部活終了後、マンツーマンで練習した。父と同じ左利きに矯正され、「背が低くても世界で通用する」と得意技のカウンターをたたき込まれた。
 気仙沼高に進むと、2年生のときに父が同校に赴任し、監督と選手の関係に。「甘やかしていると見られないよう、ほかの選手よりかなり厳しくした」と健一さん。高校3年のインターハイでは団体戦で準優勝した。
 千田選手は特訓にも弱音を吐かなかった。小さいころ、父が「奈落の底に突き落とされた」と、モスクワ五輪のボイコットを嘆いた言葉を覚えている。「だから一生懸命教えてくれるんだ」。無念の思いは感じていた。

<恩返しの舞台に>
 かつては「オリンピックにわだかまりがあった」という健一さん。今は晴れ晴れとした表情で「自分の時代と違って、世界との距離は縮まっている」と語る。父のレベルを超え、さらに飛躍を目指す息子が少しうらやましそうだ。
 千田選手は「おやじがオリンピックに行けなかった分、フェンシングの神さまが見守って、後押ししてくれた」と快活に語る。北京では父への恩返しが目標だ。(河北