フェンシングつれづれ(RENEWAL)

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剣一徹、父子の4270日 フェンシング・太田雄喜さん

(asahi.com)

 父と息子の、長年にわたる二人三脚が幕を開けたのは、14年前の「こどもの日」だった。

 太田義昭(55)は、小学3年の次男雄貴をショッピングセンターに連れて行った。欲しがっていた家庭用テレビゲーム機の本体とソフト2本を買い与えた。それと引き換えに、まじめにフェンシングをやることを約束させた。

 「深く考えないで『OK』ですよ。高価なおもちゃを買ってもらった子どもが断るわけない」。雄貴は振り返る。物で釣られたわけだ。

 義昭は少年時代、テレビ映画「快傑ゾロ」の剣士姿にあこがれ、京都・平安高でフェンシング部に入った。しかし大きな花は咲かなかった。高校総体の全国大会にも出られなかった。夢は子どもに託すことにしていた。

 ところが、長男智之(29)はスキーを選び、長女麻貴(25)は「がに股の姿勢が格好悪いから、フェンシングはやりたくない」。末っ子への「買収工作」は大人の知恵を働かせた最後の作戦だった。

 練習場は自宅1階の居間。小学校教諭の父は仕事から帰ると、剣を突く基本を仕込んだ。「とにかく毎日やる。ご飯のようなもの。継続は力なり」。それが父の哲学だった。

 妥協はなかった。雄貴が明かす。「サッカーでゴールキーパーをして右手の親指の靱帯(じんたい)を痛めたんです。剣を握れないから練習は無理だと言ったのに、テーピングで固め包帯をぐるぐる巻きにして練習させられた」

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 始めて半年たったころ、小学生の全国大会で優勝した。勝つ楽しさを知り、自然と練習に熱が入り始めた。

 「1年を超えてくると、連続練習記録が途切れるのがもったいなくなった」

 家族でスキー旅行に行ってもホテルの部屋で練習した。ステップを踏む音がうるさいと、下の階の客から苦情が出た。

 中学1年の春に、記録が途切れそうなピンチがあった。雄貴は京都市内の寺に泊まり込む学校行事に参加した。練習する予定はなかった。夕暮れが近づくにつれ、雄貴の気持ちが揺れだした。「世界を目指しているのに、学校の行事ぐらいで休めない」

 泣いて先生にお願いし、公衆電話から家に電話した。大津市の家から、父が車を飛ばして来た。薄暗い境内には5分ほど、剣さばきを確認する2人の影があった。

 フェンシングは、日本ではマイナーの域を出ない。国内の一線級は「2世選手」が多い。男子フルーレの日本チームでも、千田健太の父は日本がボイコットした幻のモスクワ五輪代表だし、福田佑輔の父はメキシコ、ミュンヘン五輪の代表選手だ。

 自分が一流選手でなかった義昭には、彼なりの考えがあった。「自己流の指導では限界がある。一流のコーチに習い、有名選手の練習方法を採り入れよう」

 そのための手間は惜しまなかった。2人で日本各地を飛び回った。週末、早朝の新幹線で東京に駆けつけ、女子大の練習に通った。「練習のあと東京観光をしたり、帰りの新幹線でお弁当を食べたりするのが楽しみだった」と雄貴は懐かしむ。母妙美(55)は「上の子2人はパパが雄貴ばかり可愛がるので嫉妬(しっと)したと思う。雄貴も小学校まではパパ大好きの子で、いつも一緒にいました」。

 中学生では、福田佑輔のいた高校、名門・東亜学園の伊豆合宿に飛び入りで参加した。もちろん父も一緒だ。「冬の夜明け前からランニング。中学生と高校生じゃ体力が違うからきつかった」

 格上と剣を交えることで成長を促す父の戦略は、実を結んでいった。中学2年の全国大会で優勝し、翌年も連覇。平安高時代は全国高校総体で史上初の3連覇の記録を打ち立てた。04年アテネ五輪に出場し、日本人最高位の9位。8歳から続けていた「毎日休まず練習する」という日課は、3750日以上を数えていた。

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 連続記録は、しかし06年、大学2年の冬に途切れた。実家で練習の相手をしようとした父に息子は告げた。「もう、ええんとちゃう?」

 アテネ五輪後、雄貴は不振のトンネルに迷い込んでいた。ドイツに練習に行ったとき、外国選手が練習と休みでメリハリをつけているのが新鮮だった記憶がよみがえる。「単に練習を続けるのが目的になっていないか」。疑問が頭をもたげていた。惰性で続けるのは嫌だった。

 息子の突然の告白に戸惑った父は、剣を放り投げて部屋を出て行った。ただ、内心では覚悟していたという。「五輪にも出た息子に教えることもない。3千日を過ぎた頃から、もう潮時かなとは思っていた」。

 4270日を超えていた連続練習記録が止まった。自立の儀式が済んだ。

 大学3年の冬、ドーハ・アジア大会で日本人として28年ぶりの金メダルを手にし、再び上昇気流に乗った。ことし3月、世界ランキング7位で、北京五輪出場を決めた。

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 21日、春めいた青い空の下、雄貴は同志社大を卒業した。周りで記念撮影に興じる同級生たちは人生の門出を迎え、晴れやかに見える。競技に集中して就職活動をしなかった雄貴の進路は、8月の北京五輪までしか決まっていない。胸の内は、期待されるメダルへの希望と不安が交錯する。

 「立派な卒業です。進路については五輪が終わり、少し落ち着いてから考えればいいんじゃないですか」

 父は、自分が果たせなかった夢をかなえてくれた孝行息子にエールを送った。=敬称略

 ■太田雄貴 略歴
85年 11月25日 大津市で生まれる
92年 大津市比叡平小に入学
94年 フェンシングを始める
98年 京都・平安中に入学
    全国中学校体育大会ベスト16
99年 全国中学校体育大会優勝
00年 全国中学校体育大会2連覇
01年 京都・平安高に入学
    高校総体優勝
02年 高校総体2連覇
    史上最年少で全日本選手権優勝
03年 高校総体3連覇
04年 同志社大商学部に入学
    フルーレの日本人でW杯初優勝
    アテネ五輪に出場、日本人最高位の9位
06年 ドーハ・アジア大会で金メダル
07年 パリ・グランプリ大会で2位
    アジア選手権優勝
08年 3月、北京五輪出場が確定(世界ランキング7位)
    同志社大を卒業