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太田選手銀メダル・各種報道

 とりあえづ、太田選手効果で?!当HPのアクセスも急増しているようです。どうもありがとうございます。
 たくさんありすぎてまとめきれません。
 随時貼っていきます。ただ、内容はどこも一緒かな。

・五輪フェンシング 「逸材」強化、歴史変え…太田銀メダル
 決勝は力尽きて敗れた。「金メダルを狙っていたので、男として悔しい」。競技者の本能が、そう言わせたが「日本フェンシング界にとっては大きな一歩を踏み出せたと思う」と充実感も口にした。
 豊かなスピードと繊細な剣さばきを備え、「20年に一人」といわれる逸材。そんな22歳に、日本フェンシング界の70年有余の歳月を超えた夢が託された。
 フランス発祥のフェンシングが日本に伝わったのは1932年。五輪には52年ヘルシンキ大会から出場した。フェンシングは1896年のアテネ五輪で正式競技に採用された8競技の一つ。その中で唯一、日本がメダルを獲得していないのが協会の負い目だった。
 逸材を得た日本フェンシング協会は勝負に出た。スポンサー収入やテレビ放映権料がない“マイナー競技”は強化資金が慢性的に不足している。張西(はりにし)厚志専務理事らは自ら企業に頭を下げて約5000万円を集めた。
 それを有力選手に投入し、北京五輪に向けた「500日合宿」が始まったのは昨年。強化資金で東京都北区の国立スポーツ科学センターの近辺に太田ら7選手を住まわせ、週6回1日6〜8時間の練習に集中させた。今春に同志社大を卒業した太田は就職をしていない。所属の「京都クラブ」はほとんど実体はなく「さすがにニートとは書けない」と記したものだ。太田も北京五輪に人生をかけた。
 小学校3年生で、選手だった父の教えで剣を握った。大学時代のドイツ留学で恵まれたスポーツの環境を目の当たりにして「歴史を変えたい」と思った。将来の夢は大学教授。スポーツの普及に力を注ぎたいと考えている。「周囲の期待がしんどいと思ったこともあったけど、最後はそれが力になった」。熱い思いで歴史を刻み、マイナー競技の心意気を見せた。(毎日)

・フェンシング界の未来を切り開いた「史上最高の逸材」フェンシング個人フルーレ銀メダリスト・太田雄貴
 ついに、1つの偉業を成し遂げた。
 小学3年時に、父の「スーパーファミコンを買ってあげるから」という誘いでフェンシングを始めてから13年、日本フェンシング界初のメダリスト・太田雄貴の名が歴史に刻まれた。
「史上最高の逸材」と言われ、フェンシング界の未来を担う存在として、多くの期待とプレッシャーがかけられた中で、見事に成し遂げた快挙。だが、その道のりは、決して緩やかなものではなかった。
■メダルへの期待がプレッシャーに
 3カ月ほど前の、苦い記憶がある。
 五輪出場を決めた後、東京で開催された高円宮杯で、太田はベスト8に入ることなく姿を消した。彼を追う多くのカメラがいる中で、惜敗にも及ばない“惨敗”を喫した。それが、後に北京の2回戦で激突することになる韓国の崔秉哲。
 オレグ・マツェイチュクコーチは「今までで、一番最低の試合」と酷評し、太田自身も「メダル、メダルと考えているけれど、気持ちがイマイチ盛り上げられない」と苦悩していた。
 だが、弱音を吐くわけにはいかない事情がある。
 五輪でのメダル獲得という悲願達成に向け、フェンシング協会は2003年から本格的な強化策を打ち出した。東京以外を拠点とする選手たちに住居を提供し、国立スポーツ科学センターで500日にも及ぶ合宿を敢行。それもすべてを平等に強化するのではなく、メダル獲得の可能性が最も高いと目される男女のフルーレに重点を置き、強化費も大半がフルーレへと注がれた。
 その中心が、太田だった。
 太田自身も周囲からの期待に応えようと「金メダルを獲りたい」「自分を目標にしてくれていい」「僕がフェンシングを盛り上げたい」と、強気な言葉を発し続けてきた。しかし、それが知らず知らずのうちに、自身へのプレッシャーになっていた。
「金メダルを獲りたい」だったはずが、周囲の盛り上がりに触れるたび、「金メダルを獲らなきゃいけない」に変わる。足りないものばかりが目につき、不安が焦りを増長させた。
■自己と向き合い、不安の靄を払拭した
 とはいえ、できることにも時間にも限りがある。太田は、雑念を振り払うために一度剣を置き、フィジカルトレーニングに明け暮れた。そんな太田に対し、江村宏ニ監督は「自己調整力」を高めるように提案する。どう戦うか、何のために戦うかはすべて自分で決め、自分でコントロールする。休むときは休み、追い込むときは追い込む。自らと向き合うことで、「誰かのために」という重圧から放たれ、太田を取り巻いていた靄が、少しずつ取り除かれていった。そして自然に、不安も消えていた。
 五輪の開幕を10日後に控えたフェンシング選手団壮行会の席で抱負を求められ、太田は迷わずこう言った。
「緊張、プレッシャーがあってこそ価値がある。メダルも期待していて下さい。僕は金メダルを取る気満々で北京へ行ってきます」
 有言実行にはほんの少しだけ及ばなかったが、堂々の銀メダル獲得。フルーレ、エペ、サーブル、すべての出場選手たちが、太田の勝利を涙と笑顔で称えた。
「今自分ができることは最大限できた。よく頑張ったと思います」
 実に70年にも渡り、閉ざされ続けていた重い扉を、太田が右手でこじ開けた。未来は、ここから描かれていく。(スポナビ)